神奈川県連盟のあゆみ

1 創立の経緯

(1)ソフトテニス(軟式庭球)競技の誕生

ローンテニス(硬球)が、日本に初めて持ち込まれたのは、1870 年代の明治の初めに、横浜や神戸の開港地に住むアメリカ公使館員や宜教師たちによってであったという。
その後、政府の招きで来日したアメリカ人のリーランドが、明治11年に開設されたばかりの文部省体操伝集所において、本国からテニス用具を取り寄せ、ローンテニスを指導したのがきっかけとなって、我が国に普及するようになった。
文部省体操伝集所は、明治19年に廃止されたが、それに代わるものとして、東京高等師範学校(東京教育大学の前身)に体操専修科が置かれ、同時にローンテニス部が設置された。しかし、硬球の用具の輸入は難しく、かつ高価であったため、一般への普及は極めて困難であった。そこで、同校は、『三田土ゴム会社』に依頼して、ゴムマリを製造させた。ここに、軟式庭球が産声を上げることとなった。まさに、日本人自らの知恵と工夫による発明であった。
本県に軟式庭球が導入され、普及されたのは明治31〜32年ごろと思われる。明治38年10月に、第5回法曹クラブ庭球大会が西戸部(横浜市西区戸部町)第五高等小学校裏手のコートで開催されたという記録が残されており、東京高等師範学校で軟式庭球が始められた直後に、本県に入ってきたと推測される。
一方、小田原では明治22年ごろイギリス留学から帰国した関重忠海軍少将(小田原市南町出身)が、現地で覚えた硬式テニスを、柔らかいゴムマリで打ち始めたのが、我が国の軟式庭球の始まりであるという一説が伝わっており、小田原高校軟式庭球部誌(『かりがね』29号)には、明治43年卒業の関重広氏の記述に、「僕の父は、海軍軍人だったが、イギリスで庭球を覚えて明治22年(1889年) に日本に帰ってから普及に努力した。恐らく、神奈川県の庭球の草分けだったであろう。退役後、明治42年(1909) 山田又市等と、小田原庭球会を発足させ、若い人達と盛んにやっていたが、その父の勧めで僕も中学時代には、平日は学校で、日曜日は同級の太田黒元雄(音楽家)のコートで毎日やっていた。」と記録が残っている。

(2)県連盟の結成

大正11年に東京軟球協会が設立され、同年8月に第11回全日本男子選手権大会が開催された。東京軟球協会は、大正13年に日本軟球協会と改称し、全日本男子選手権、中学校選手権、女学校選手権、などの大会を開催した。
この日本軟球協会の創立に前後して、本県にも横浜を中心に神奈川県軟球協会が設立され、初代会長に佐藤栄七氏が就任。この時代の試合方法は、すべてクラブの対抗戦で、大会が終了するまでに約3カ月要していたという。
全国的に普及した軟式庭球も、昭和13年の日華事変勃発で、原科ゴムの配給が許可制になったため、次第に競技勢力が低下した。
本県でも、県軟庭連盟が中心となってボールを配給していたが、当時の担当者が公正な配給をしなかったため、各クラブの不満が爆発し、県でもその取り扱いに苦慮した。
県では、公平なゴムボールの配給を、当時の連盟理事長河野太郎氏に相談した。河野理事長は、県下各地域の知人にクラブの登録を依頼し、このクラブの登録による会員を基にボールを配給した。
しかし、日華事変から太平洋戦争に突入し、戦局はますます悪化して、昭和20年に終戦となった。そして、軟式庭球もほとんど消滅してしまった。
終戦とともに、国民は民主国家・文化国家の再興を目指し、焦土から立ち上がった。軟式庭球界でも、国民体位の向上、スポーツ振興の努力が進められた。
この様な環境の中で、本県にも連盟を結成する動きがあり、昭和21年、戦前のゴムボール配給のクラブ登録を主体として、神奈川県軟式庭球連盟が設立された。初代の会長には、益田信世が就任した。

第10回国民体育大会少年男子優勝(昭和30年 神奈川県)

当時、傘下にあった地域協会は、横浜、川ア、横須賀、小田原、鎌倉、藤沢、平塚の7地区であった。そして、これらに相模原、県央、足柄上郡が加わり合計10地区となった。その後、鎌倉が解体し、昭和50年には、足柄上郡が小田原に合併、現在は8地域協会となっている。
終戦から立ち直り始めた昭和25年に、配給制であったボールやガット等が自由販売となり、テニス熱は益々盛んになると共に、神奈川テニスの第2次黄金時代を迎えることとなった。
昭和30年代の初めには、高等学校体育連盟の軟式庭球部が独立、県内所在の大学生による学連が、更に昭和62年家庭婦人の連盟が合体し、組織の充実整備が図られた。

全日本軟式庭球選手権大会一般男子優勝 太田・橘川組(昭和32年 東京都)

平成4年には、競技名が「軟式庭球」から「ソフトテニス」に改称されたことに伴い、本連盟も「神奈川県ソフトテニス連盟」へと名称を変更。平成5年1月には国際普及を目的とした「ソフトテニス国際競技規則」の制定もあったが、迅速な新ルールへの対応が図られるよう県内への普及促進に努めた。
また、平成5年から本連盟主管で開催した「ジャパンカップ国際大会(平塚市総合体育館)」では、本県選手の参加もあり、県内競技力の向上・国体に向けた役員の育成とともに、「ソフトテニス王国神奈川」の名を内外へ知らしめる機会となった。
平成10年の「かながわゆめ国体」の開催に合わせ、県内の施設(小田原テニスガーデン・厚木市南毛利テニスコート)の整備がされ、環境の整備が進むとともに、県連盟内の競技力向上へ向けた機運も高まりを見せた。

2 県連盟の課題

ソフトテニス人口の変化の問題と競技力向上の問題がある。これらの問題解決のためには、県連盟の体制の強化と8地域協会だけでなく、学連、高体連、中体連、そしてレディースとの連携が不可欠であり、このことを主眼として現在まで運営に努力し、各団体の協力により順調に発展を遂げた。

(1)ソフトテニス人口の変化

順調に戦後の復興を見た反面、新たな問題も生じてきていた。神奈川県が首都圏都市として発展し急激に人口が急増。連盟としても急速に発展する一方で組織が膨張し、役員や選手相互間の親密さが薄れつつあり、新たな課題が浮き彫りとなった。
恐らくこれが、昭和31年代末期から昭和50年ごろまでの苦しい低迷期を余儀なくされた最大の原因であったと思われる。

平塚インドア大会役員席(左から3人目が第3代会長河野謙三氏)

因みに登録会員数は、連盟設立直後の昭和23年には5,411名であったものが、ピーク時の昭和58年には44,903名と8倍強の増加となっていた。
ソフトテニス連盟の課題は、この膨大な数の人々の期待に応え、また会員のレベルを向上させ、常に高度の水準を維持させるかということである。
県連の戦後の基礎は、河野太郎氏が、昭和16年から36年間にわたり理事長を務めて築き上げたものであるが、その河野氏の最も腐心したのも、実にこの問題ではなかったかと思われる。
平成に入ると昭和49年ごろから始まった少子化、競技種目の多様化、そして部活動離れなどを理由として、それまでの急激な人口増とは逆に競技人口の逓減が続いている。
競技人口が減少しているとはいえ、設立時の6倍の会員が満足のいく活動をするためには施設が必要であり、県連盟の主要事業である大会開催のためのテニスコートの確保をすることが最優先課題となっている。
また、人口逓減の歯止め策としてのジュニア、シニア層を中心としたソフトテニス愛好者への拡大の取り組みも、並行して取り組むべき課題となっている。

(2)競技力向上対策

ソフトテニス振興のためには、普及活動とともに県選手の競技力向上を図り、好成績を挙げ全国に神奈川の名を知らしめることが重要である。これによりソフトテニス愛好者が夢を持ち、意欲が高揚して県全体の活力が増大する。そして相乗効果として普及にも繁がるものと考え、競技力向上対策にも重点を置き取り組んでいる。

(3)執行機関

県連盟組織の執行機関としては、理事会と総務企画、競技、審判、指導、強化、広報の6つの専門委員会がある。
専門委員会の活動は近年充実しており、例えば競技委員会の主要な業務である番組編成においては、厳正かつ公正な番組編成により参加者の不満の余地をなくすとともに、選手の参加意欲を高めるよう努めている。審判委員会では、講習会を定期的に開催しており、特に中体連と協力して実施しているジュニア審判員の育成は全国一の実績を誇っている。指導委員会では、新しい技術等級制度への対応や小学生の育成に励んでいる。そして、国体をはじめ中央大会での成績でもうかがえるように、強化スタッフの献身的な努力による強化委員会の取り組みは、神奈川のソフトテニスに大きな夢をつないでいる。
現在、連盟には、学連、高体連、中体連及びレディース連盟の他に、県内8地域にソフトテニス協会が設立され、自主的に運営されており、県連盟に役員を選出してくるとともに、県連盟の事業を遂行している。

(4) 県連盟の事業

県連盟の基本方針として、会員の参加の機会をより多く、かつ公平にするため、各種中央大会に対する選手の選抜は、原則として予選大会を開催することとしている。そして、この予選会を含めた県連盟主催の社会人関係大会を、毎年20数回も開催している。

全日本レディース軟式テニス全国決勝大会(先頭の監督は県連現会長の笠井達夫氏)

さらに、普及活動として、指導者講習会、スポーツ教室のほか、特に家庭婦人の普及を図るため、レディース大会を、昭和40年代後半から行っている。
昭和58年からは、新たな重点的活動として、小学生を対象としたジュニア大会を開催し、予算上も従来の高体連、中体連に対する運営補助に加えて、59年度からジュニア選手強化費を編成することにより、その資金を有効に活用して、中体連・高体連共に年々活発な活動を展開している。
選手強化事業については、各種中央大会前に強化練習会を開き、技術の向上とともに、選手相互の親密化を促進して、日常活動への団結と連帯感を深めるように努めている。

(5) 地域協会

前述のように、多数の大会を開催しているが県大会はどうしても一定以上の技術を有する選手の活躍の舞台となりがちであり、初心者にとっては、敷居が高いという印象を持たれることが課題となっている。こうした課題を対応しているのが地域協会である。
地域協会は、県大会の開催を主管団体として運営するとともに、それぞれ年数回の主催大会を開催し参加者の増大と試合の機会を設けており、初心者の出場機会の提供とともに、技術力の向上にも寄与している。
さらに、地域協会では初心者講習会なども多く開催し、大会運営においても種々の工夫と努力が積み重ねられており、明るく楽しいスポーツとしてのソフトテニスの普及に貢献している。
言い換えれば、ソフトテニス界は、こうした地域ごとのソフトテニス協会関係者の献身的な努力に支えられているといっても決して過言ではない。今後のソフトテニス界の発展においても、県連盟組織としての責務の大きいことはもちろんであるが、その実質を成し遂げられるか否かは、こうした各協会の関係者の方々の双肩にかかっている。
県連盟役員も、地域協会役員の経験を持つが、選手の強化、高水準の維持ということにばかり目が向くようでは、将来の発展にも支障が生じる。そこで、こうした各協会の地道に献身的な活勤を永く続けている人々の指導を受け、一人でも多くの人が楽しめる県のソフトテニス連盟であるように努力している。

(6) 現状と展望

このように、各地域協会と高体連、中体連そして、県連盟、学連の役員が一丸となった努力が実り、全国でも有数の登録団体及び登録会員数を誇るようになった。また、非登録の家庭婦人等多くの愛好者も多い。さらに、県内団体の選手育成に対する協力により選手の技量も向上した。
その結果、国体において、昭和49年少年女子第3位、昭和54年少年男子第2位とその成果が表われ、ついに昭和56年には成年男子が優勝を果たした。以来、現在まで少年男子が4回優勝、他の種別も毎年入賞を狙えるような力となり、福島国体においては、成年2部最後の国体で見事優勝し、念願の天皇杯男女総合優勝を、平成18年度兵庫国体において2度目の天皇杯優勝、平成22年度には成年男子が優勝を果たすことができた。

第49回国民体育大会 少年男子優勝(平成6年度 愛知県)

そして、ジャパンカップ国際大会、全日本社会人、全日本中学、全日本小学生、及び関東、東日本選手権大会に優勝、各種中央大会に上位入賞等数多くの戦績を得ることができ、アジア競技大会、世界選手権大会の日本代表選手を育成することができた。
平成10年に第53回国体が、ソフトテニス競技では初めての2会場地開催国体として、本県の小田原市と厚木市で開催された。この地元国体を成功させることは県連盟が抱えている課題解消のチャンスと捉え、第53回国体が神奈川県で開催決定以来、このことを念頭に準備を進めた。
国体開催5年前より、かながわ・ゆめ国体の役員育成、選手強化を目的として本県で主管したソフトテニスジャパンカップ国際大会は、大会運営に大きな自信となり本県選手には何よりも競技力向上につながった。
このようにかながわ国体の成功に秘めた県全体の役員、選手、愛好者が一体となっての準備、努力が、県連盟の課題解決、県連盟の体制強化、競技力向上の効果となり、神奈川県ソフトテニスの発展に大きな起爆材となったと思われる。
残念なことに戦前の県連盟育ての親であった河野太郎氏、永年にわたり連盟会長として陰に陽に連盟を導かれた河野謙三先生をはじめとして多くの指導者が逝去された。このような偉大な先輩方の志を継いでいかなければならないが、第53回かながわ・ゆめ国体を布石として、組織をさらに整備強化し、能率的に運営するとともに、特定の不世出の偉大な人たちに頼ることなく、愛好者の親睦、団結を強めていくことが大切なことと考える。
必ずや、笠井達夫会長の下に若い力が、恵まれた風土と県民の気性により、先輩達の功績を受け継ぎ、神奈川県ソフトテニスをさらに発展させていくものと信じている。